バツイチだったノムさん。「女運があったとは思えない」とボヤキ節
野村の哲学ノート②
■「伊東沙知代」との出会いは中華料理屋
そんなとき出会ったのが沙知代である。私が35歳、沙知代が38歳のときのことだ。
当時のホークスは、東京遠征のときは表参道にある旅館を定宿にしていたのだが、その近くの中華料理屋によく足を運んだ。そこのフカヒレそばが特においしく、試合に行く前には決まって食べていたものだ。
その日も午後2時頃に宿に着くと、マネージャーと2人で店に入った。昼休みの時間帯から外れていたこともあり、私たち以外に客は1人もいなかった。そして、私がフカヒレそばを啜っていたとき、沙知代が、「ママ~、お腹すいた~」と言いながら静かな店内に入ってきたのである。
その店のママと沙知代は友達らしく、
「監督、いい人を紹介してあげるわ」
ということで、同じテーブルで食事をすることになった。
手渡された名刺には「伊東沙知代」という名前の上に「取締役社長」という肩書があり、驚いた。聞けば、ボウリング用品の輸入販売会社を経営していて、当時のボウリングブームの波に乗り、日本とアメリカを行き来するキャリアウーマンだという。もちろん英語は堪能だった。
「世の中にはこんなに活発な女性がいるのか。俺にないものをたくさん持っているな」
真っ黒に日焼けした姿も相まって、そんな第一印象だったと記憶している。
それに対して、当時の沙知代は野球に詳しくなかったため、ママが口にした「監督」という言葉を聞いてもピンとこなかったようだ。
「どんなお仕事をされているんですか?」
と最初に聞かれたとき、
「雨が降ったら商売になりませんよ」
とあえて捻って答えてみたところ、監督は監督でも、工事現場の監督だと思ったらしい。正直にプロ野球の監督をしていることを伝えると、早速、野球少年だという自分の息子(団野村氏)に店から電話を掛けていた。
「今、プロ野球の野村さんって人と一緒にいるけど、有名な人なの?」
「すごい人だよ」
そんなやりとりを経て、沙知代が席に戻ってきたとき、私に対する態度は好意的なものに変わっていた。
それから意気投合し、小学生だった2人の息子(もう1人はケニー野村氏)が野球好きということを知り、当日の試合に親子3人を招待した。後楽園球場で東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)とのナイターがあり、バックネット裏の席を手配してあげたのだ。